【書評・番外編】会議が仕事の邪魔をする ~ドラッカーの会議論~

あなたの知り合いの中に、いつ会社に電話を掛けても「〇〇は打ち合わせ中でして…」と言われ、なかなか連絡のとれない人はいないだろうか。

しばらくして、やっと折り返しの電話をしてきた相手に「相変わらず忙しそうですね」と皮肉交じりに言うと「いや~中身のない会議ですよ」と返されて「中身がない事をするぐらいなら、電話に出てくれよ」と思ったことはないだろうか。

P・F・ドラッカーの「経営者の条件」(ダイヤモンド社)に、会議について書かれた箇所がある。ほんの数ページではあるが、そこに記された内容が有益で示唆に富んでいると思うので、いずれ執筆する書評とは別に、その箇所だけを抜き出して紹介する。

人は、仕事をするか、会議に出るかである。同時に両方を行うことはできない。

(ドラッカー「経営者の条件」第2章)

いきなり、言ってくれる。

特に古い体質の会社の中には「会議に出ること=仕事」と真面目に考えている人が多くいる。しかし、それは誤りだ。組織では意思疎通をして協力しなければならない。会議というのは組織の中で各自が仕事を進めるための下準備に過ぎない。会議自体が目的化していては本末店頭である。

それなのに、悲しいかな、会議の回数はどんどん増え、時間は長くなる。本書に面白いエピソードが載っていた。

ある社長は(中略)議題の如何にかかわらず、あらゆる会議に役職者全員を参加させていた。その結果、会議の出席者が多くなりすぎていた。しかも出席者たちは会議に関心があることをアピールするだけのために(中略)意味のない質問をするようになっていた。そのため会議はいつも長引いていた。

(同)

筆者(私)の昔の上司にも、似たり寄ったりの人がいた。例えば、火曜に「明日は大事な会議がある」と言い、丸一日を会議で報告するネタ探しに充てる。この時点でおかしい。会議は日常の業務に励む中で解決すべき懸案事項や共有すべき重要事項を出し合い、今後の仕事を円滑に進める叩き台にする場のはず。

ところが、この元上司は急ごしらえで「会議で発表するものはないか」と探すのである。発言すること自体が目的になっており、むしろ内容に焦点を当ててすらいない。そういう人に限って、会議当日は勇んで会場に向かい、持ち場に帰ってきて疲労感を訴える。

理想は「会議のない組織」

ドラッカーは至難なことではあるが、最も理想的な組織は「会議のない組織」であると言っている。誰もが必要なことを共有できていて、仕事を進める条件が整っている状況だ。会議をするにしても「目的をもって方向づけしないといけない」と主張する。人数も減らさなければならない。

興味深いのは、こうした「会議論」が時間管理に関する要諦を書かれた章に記されていることだ。

つまり、どんどん増える会議、だらだらと長い会議は、成果にフォーカスするビジネスマンにとって、時間を浪費させる害悪であり、仕事を邪魔するもの以外の何物でもないということを説明している。幹部が集まって仕事を邪魔し合っているなんて、一見して信じがたいが、冷静に考えてみると、残念ながら身近な例が腐るほど多くあることに気付く。

本書では、この会議論の前段の話題で、素晴らしい記述がある。

よくマネジメントされた組織は、日常はむしろ退屈である。

(同)

これは繰り返し起こるような混乱は予防策を講じるか、事務的に処理できるような仕組みづくりをすべきという主張の中に出てくる。

「退屈」というのは一種の比喩表現であって「ムダな作業が少ない」と読み替えることもできる。社内の幹部が集合し、互いに興味のない発言を披露しあう会議を開き、それを形式上、細分化された部署内の打ち合わせで共有する、といったフローを踏まなくても、現代は重要事項を社内イントラネットやグループチャットで共有できる。

会議をすれば、出席者全員の手が止まり、仕事は前に進まないが、そうした手法を使えば、それぞれが好きなタイミングで情報に触れられる。もちろん、前述の「方向づけ」に該当するような、例えば「新規事業のアイデアについて、Aさんの意見を聞きたい」といった、面と向かって話をしてこそテーマを前進させられる会議には一定の意味がある。

ただ、それも長引きすぎないようにすることが重要だ。「多動力」(幻冬舎)の中で堀江貴文さんが言っていたように、同期的な交流を求めるということは、相手の都合を犠牲にしてまで自分の都合に合わせてもらうことになるからである。

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