2023年5月25日、主要国立大学の理学部長たちが女子学生の比率向上へ共同声明を出した会見で、檀上の理学部長が全て男性であることを非難する声がSNSに多く挙がっている。
筆者としては、会見に当たって「見せ方」に配慮が足りない面はあったものの、非難する側が「平等」をはき違えている(曲解している?)のではないかと呆れている。
「理学部長が男ばかり!」⇒ そりゃ、そうでしょ
SNSに挙がっているのは「なぜ男性ばかりなんだ」「女性の理学部長がいないのがオカシイ」という声だが、まずは、そんな現状だからこそ共同声明を出しているんじゃないの?という、そもそも論がある。
記事によると、理学部生に占める女性の比率は27.8%らしい。20年前に大学に入った筆者の肌感覚からすると、当時、今回の声明に名を連ねるような難関国立大学の理学部は男9(8):女1(2)ぐらいか。今はだいぶ高まったと思う。
ましてや、いま学部長をしている年齢層は、さらに20~30年前に学生だったとみられ、もっと男性比率が高かっただろう。理学部長の10人全員が男性でも何ら不思議はない。
ただ、見せ方として女性教員を何らかの立場で同席させても良かったとは思う。
声明の原文を読んでみたら…
むしろ筆者が疑問なのは「なぜ女子学生の比率を高めないといけないの?」だ。誰が何を学ぶかは本人の自由だし、男性に人気の学部も、女性に人気の学部もあって良い。例えば、看護学部や外国文学の専攻科は女性の方が多いだろう。
報道を見ていても、この点がよく分からない。そこで、共同声明の原文を読んでみた。
簡単に言えば「女子学生が多すぎてジェンダーバランスを実現できてない。男女比が偏ると抵抗感を感じて進学をためらう子もいるので、性別に関係なく学びやすい環境にする」ということ。報道やSNSの印象よりは、随分とニュートラルな印象を受ける。
当サイトは以前より、女性管理職比率に数値目標を掲げる風潮は、平等概念への理解の浅さを反映していると指摘してきた。こうした「結果の平等」を突き詰めると「結果をそろえるため、それ以外を犠牲にする」ことが起こり得る。
つまり、目的を達成する名目で、誤った手段が正当化される。
例えば、学校でも会社でも「女性枠」を設ければ男女比は改善されるが、合格基準は性別により少なからず差が出る。仮に女性の基準が低くなれば、いずれ、その学校、その役職の価値をも脅かすことになりかねない。
「私はピエロ」
筆者はこれまで、立派な役職に出世した女性と話す機会がたくさんあった。そのうち何人かが「私はピエロなので、その役に徹しようと思う」と悲しそうに漏らしていたのを覚えている。
男女平等とか男女共同参画とか言われ、共働き比率が高まり、女性の出世例は増えた。しかし、周囲からは「女だから下駄を履かせてもらえた」と見られることも多い。ここにギャップがあり、当の女性たちには出世を自らの努力の賜物と認識できない苦しさがあったようだ。
そんな中、馳浩石川県知事みたいな人が「能力が同じなら女性職員を優遇する」なんて平気で公言するから、女性たちはさらに苦しむ。がんばって出世しても、周りから「女だからね…」と見られ、負のスパイラルが深まってゆくからだ。
動かせない不利の解消 ≠ 特定の人のみを優遇
誰かが抱えるどうしようもない不利の解消は広く理解を得られやすい。しかし、特定の誰かを優遇するのは反感を買ってしまう。そして「結果の平等」は後者になりがち。
上記のように、共同声明は若者が個人で動かしがたい属性によって不利を被らない「機会の平等」を提唱しているように見える。それなのに、マスコミや活動家的な人により、さっそく「分かりやすく」色付けされたようで残念である。
国内最高峰の「学問の府」として、ぜひともそうしたミスリードに惑わされず、あるべき取り組みを進めていただきたい。