なぜ、こんなに表面的な考えになるのか。2022年8月28日の北國新聞朝刊によると、馳浩石川県知事は同27日の県女性県政会議で「政策意思決定機関には男女が同じ人数必要」「議会も男女が半分ずつにならなければならない」と述べたらしいが、報道が正しいなら、筆者には違和感しかない。
遅すぎる議論
おそらく発言の理由は「人間の半分は女性だから」だろう。男女がほぼ半数なのは人類誕生時から変わらない。それを根拠に何かを論じるのは、500万年遅い。
下のリンクの過去記事に書いたので詳細は省くが、職業や職場環境の男女平等を論じる際に重要なのは「機会の平等」であり「結果の平等」ではない。結果の平等を追い求めると、逆に平等ではなくなる懸念があるからだ。
先に結論を言うと「議員になりたい」と思った女性がいたら、その人が女性であるために男性よりも不利になったり、障害になったりするような環境があれば、それは是正しなければならない。そうやって「機会」を確保するのが望ましい姿勢だ。
女性立候補者が1人だったらどうする?
それでは「半分ずつにならなければならない」は何が問題なのか。
日本人は憲法で「職業選択の自由」が保障され、特定の職業への就業を誰かに強制されるものではない。だから、自然に任せれば、職業の性質や時期によって男女比が偏るのは当然である。
極端な話をすると、県議選の立候補者を受け付け、女性が1人、男性が50人だったら、どうやって男女同数を実現するのだろう?

男性49人を落選させて男女1人ずつの議会を作る? 19人の女性を後から連れてきて、女性全20人と男性20/50人を受からせる? いずれも男性は性別を理由に就業機会を奪われていないか? それは「逆差別」ではないか?
結果の平等を安易に求めると、こうした難題に直面してしまう。
企業変革がテーマだった過去の日本テレビ系ドラマ「悪女(わる)」を思い出す。主人公らは女性管理職比率を上げるため、社内の優秀な女性を集めて研修する。だが、場は盛り上がらない。ある女性エンジニアが言う。「私は管理職になりたくない。自分の好きなエンジニアの仕事ができなくなるから」
「女性議員がもう少し増えてほしい」というのは心情としては理解できなくもないが、職業観、キャリア観は人それぞれ。誰かが「こうでないといけない」と押し付けがましく断定口調で言うこと自体、ナンセンスである。
「男女同数」こそ 差別意識の現れ?
男性議員だって女性有権者の話を聴いて意見を代弁できるし、逆も然り。男性も家事をして、女性もフルタイムで働くのが普通の時代に、議員の男女比が半々で「なければならない」というのは、平等どころか、逆に性別によって果たす役割を区別する意識の現れと言えないか。
議員に求められるのは本来、性別や選出地域、年齢、経歴の違いを超えて議論を深める姿勢だと思う。議員に望ましい属性を細分化し始めたらキリがないし、立候補制である以上は選挙が成り立たなくなる恐れがある。
必要なのは男女比をそろえて見た目の帳尻を合わせることではなく、自分の属性以外でも活躍できるマルチな議員を育てること、そんな逸材を選ぶこと、そんな人材が挑戦できる土壌を作ることだろう。