【独自】ハローバッティングセンターが23年4月に閉店/金沢市内に唯一残る施設/42年の歴史、数々のプロ野球選手も利用

【独自】ハローバッティングセンターが23年4月に閉店/金沢市内に唯一残る施設/42年の歴史、数々のプロ野球選手も利用

2023年2月27日

金沢市諸江町中丁の「ハローバッティングセンター」が2023年4月9日に閉店する。1981年のオープンから月日を重ねて42年。今では金沢市内で唯一のバッティングセンターとして営業を続けていた。数々の石川県出身プロ野球選手も利用した名施設だったが、このたび、惜しまれながらゲームセットの時を迎える。

以下、写真は2023年2月26日夜・27日昼に撮影

※追記 ハローバッティングセンターでは現在、後継者を募集しておりません。

岩下、北村、奥川、山瀬……みんな、ここで練習

「カキーン」「カキーン」。冬の夜空に小気味良いバッティング音が響く。金沢駅金沢港口(西口)から北に向かい、国道8号にぶつかる少し手前に、ハローバッティングセンターはある。

ロビーの壁には、ここで腕を磨いたり、遊びに来たりしたプロ野球選手の名前がズラリ。現役の選手だけでも、岩下大輝(ロッテ)、北村拓己(巨人)、奥川恭伸(ヤクルト)、山瀬慎之助(巨人)の名前が掲げられている。フロントには「奥川少年」がホームランを打った際の記念写真も、控えめに並んでいた。

館内には他に、テレフォンボックス、ややレトロな趣のゲームコーナーを備え、2階にはトスバッティングの練習スペースもある。その1つ1つが、金沢周辺の球児の成長を見守ってきたのだ。

タクシー運転手の経験から諸江に着目

ハローバッティングセンターができたのは1981年。主人の出戸正信さん(75)によると、当時の金沢市内では、黒田や泉が丘、森本、粟ヶ崎などにバッティングセンターが5軒ほどあったという。

野球漫画「ドカベン」の連載が1972~1981年だったことから分かる通り、ちょうど野球人気が絶頂の頃だった。もともと野球好きの出戸さんは、バッティングセンターが金沢市内にまだまだ少なく、新規参入の余地があるとみていた。

出戸さんは大学卒業後にタクシードライバーとして働いた経験を持つ。ドライバーとして実績を上げるには、時間帯や天候によって変わる「人の流れ」を読む必要があり、バッティングセンターの立地を考える際に、その経験が生きた。

朝、夕方、夜…。出戸さんは金沢市内の往来を眺め、学校の配置を調べた。その結果、市中心部と市北部を結ぶエリアで、近くにバッティングセンターのなかった諸江町に目を付けた。

出戸正信さん

「ハロー」の由来は…

さて、気になるのは「ハローバッティングセンター」の名前の由来である。これについて、出戸さんは一言で答えてくれた。

「だって、呼びやすいやろ?」

何度か質問の角度を変えて尋ねてみたが、答えは「呼びやすさ」に尽きるようだった。

筆者なりに解釈すると、園児でも知っている「ハロー」という単語を使うことに「誰でも気軽に訪れていいよ」というメッセージを込めたのではないか、と思う。

バッティングのクセで、それが誰かを思い出す

40年以上にわたり、フロントからバッティングを見てきた出戸さん。その間に面白い特技が身に着いたらしい。

ある日、見覚えのある顔の男性が来店した。「(でも、誰だったかなあ?)」と思う出戸さん。その後、バッターボックスに立った男性の姿を見て、思い当たった。男性が帰る時に「もしかして、星稜でピッチャーだった〇〇さん?」と尋ねたところ、見事に当たった。

イメージ写真

「バッティングのクセってのは、確かにある。子どもが大人になって、体が大きくなり、いろんな技術を学んでも、なかなか抜け切らんものなんや」

だから、顔を見てそれが誰か思い出せなくても、バッティングフォームを見て思い出すことがあるそうだ。筆者からすると、理屈は分かるけれども、そのクセを数年たっても記憶している出戸さんが凄い。よほど野球が好きなんだろう。

フロントの下にある棚は、さながら野球資料館だ

ウェブで地元の野球情報を配信

ところで、ハローバッティングセンターの功績は練習場所を提供したことにとどまらない。

出戸さんは数年前まで、地元の小学生、中学生、高校生らの試合結果を載せるウェブサイトを運営していた。この取り組みは既に1990年代に何度か全国紙で報道されている。当時、アマチュアの子どもたちの試合結果を詳細に発信する存在が珍しかったからだ。

このサイトは特に県外に出てしまった石川県出身者に喜ばれ、好評を集め、やりがいを感じていたらしい。数年前には試合結果の配信をやめてしまったものの、累計のアクセス数は800万回を超えるに至っている。

我が子のことのように成長を喜ぶ

ハローバッティングセンターの営業時間は平日が11~22時、土日祝日が10~22時。これだけの長い営業時間を、雨の日も風の日も、40年以上にわたって続ける原動力は、どこにあったのか。

「私には2人の娘がいたけど、男の子はいなかった。そういう意味で、ここで練習した子たちが試合に出て活躍し、大きくなっていく姿を、我が子のことのように喜んでいた」

こうした思い入れの深さが、久々の再会であってもバッティングのクセを見るだけで誰かが分かるという特技に現れているのだろう。

閉店の背景は自身の年齢

そんなハローバッティングセンターが閉店する理由は、75歳という出戸さんの年齢によるものだという。

出戸さんによると、ネットの張り巡らされたバッティングセンターでは、降雪予想を受け、ネットが雪の重みで切れないよう、地面まで下げておく。すると、その上に雪が積もる。でも、除雪機を使うとネットが切れるので、手作業で丁寧に除雪するしかない。

また、ネットが強風によって支柱に絡まると、それを直すため支柱に登らないといけない。

それに加え、溶接などの補修作業をする場面もあり、体力だけでなく技術も欠かせない。誰でもすぐにできる仕事ではない。出戸さんは「この歳になると、登るのがキツくなってきて…」と苦笑した。

平成に入って「Jリーグ」が開幕すると、子どもたちの中でサッカー人気が高まった。ただでさえ少子化が進んでおり、スポーツ少年の関心がサッカーやバスケットボールなどに分散した結果として、市内のバッティングセンターは、1つ、また1つと姿を消した。

ハローバッティングセンターの利用者数も、ピークだった昭和末期~平成初期と比べて半減している。競合するバッティングセンターは減ったものの、それ以上にマーケット縮小の影響が大きいという。

逆風が強まる中でも、ハローバッティングセンターに限れば経営はできていたが、有力な跡継ぎもおらず、出戸さんは「そろそろ潮時かな…」と、やむなく閉店を決心した。

「野球ファンに申し訳ない」

さあ、いざ閉店を決めて思い出すのは、無我夢中でバットを振る利用者の姿だ。

「バッティングセンターは金沢に1軒だけになったから、なるべく続けたかったが、野球ファンの皆さんには、とても申し訳ない気持ちがある」

近隣市町なら野々市にもバッティングセンターはあるが、野球少年たちの行動範囲は限られる。金沢のバッティングセンター最後の砦として、半ば責任感や使命感に背中を押されて営業してきた。

そのためか、閉店することを後ろめたく感じているのだろう。しかし、そんな気持ちを和らげてくれたのも、また野球ファンだった。

「今日も、学童野球のチームが練習で来てくれて。それで『みんなで来れるのは最後かも知れんから』って記念撮影するわけ。それを見とったら『早く、おじちゃんも入ってよ』って。嬉しくって、さすがに、うるうるきかけたよ」

利用者は出戸さんの決断を責めなかった。驚き、悲しみ、そして、感謝の言葉を口にした。

ハロー、サヨナラ。サヨナラ、ハロー。店はなくなっても、みんなの思い出は残り続ける。

国分 紀芳

国分 紀芳

1985年生まれ。石川県出身。慶應義塾大学商学部を卒業後、北國新聞社に入社。キャリアの大半を経済記者として過ごす。2022年2月に独立・起業した。

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