※長文になってしまいました。【提言】だけ読んでも全体が分かると思います
2023年5月5日、珠洲市を震源とする大きな地震が起きた。こうした災害が発生すると、最近はSNSに安否・被害状況を投稿した人にマスコミが群がって「連絡をとりたい」というメッセージを送りまくり、コメント欄を埋め尽くす事態になる。
筆者も地方紙に身を置いた一人として、当時の自分への反省も込めながら、この事態について、考えられる背景や解決策を書いてみたい。
被災者とマスコミはベクトルが正反対
まず、この事態の構図を整理する。
SNSの投稿者は写真や動画の投稿で何を伝えたいのか。人によっては「目立ちたい」みたいな理由もあろうが、基本的には
「こんなこともあったけど、自分(たち)は無事だよ」
ということだろう。伝えたいのは「無事」ということだ。
一方、マスコミはというと、連絡をとりたがる先を見れば分かる通り、少しでも被害が大きく見えるような写真や映像を求める。
「(けが人は少なかったけど)こんなに大変な被害が出てるぞ!」
とセンセーショナルに言いたいわけで、そのために「より不幸な人」を探す。
投稿者からしたら、たまったものではない。現地から離れた場所から形だけ心配したようなメッセージが来て、協力したら、自分の意図と正反対のベクトルで情報発信がなされるのだから。
なぜ同じ系列なのにバラバラに連絡?
SNSでは誰が誰にアプローチしているのかを把握しやすい。マスコミは横並び意識が強いので、特定の投稿者に素材提供の申し込みが集中するのは、さしずめ「とりあえずウチもキープしとこう。他社が接触してる奴には片っ端からメッセージを送ろう」という具合だろう。
厄介なのは、同じ系列局や同じ局の異なる番組から別々にアプローチがあること。上の写真で言うと、テレビ金沢とNEWS ZEROは石川県内ならどちらも「4チャンネル」で、市民目線では「お前ら、仲間内で共有しろよ、面倒くさい」と思う。
しかも、石川県民からすれば「テレビ大阪って、どこだよ。しかも『やさしいニュース』って、どこが優しいんだ、煩わしいわ!」という話である。
もちろん、キー局は番組ごとに制作チームが違うし、地方局はキー局の出先機関ではない。でも、それはマスコミ側の勝手な論理。口癖のように「縦割り行政の弊害が…」と非難する人たちが「番組ごとにチームがあるから別々に対応を」と言うなんて、笑えないジョークだ。
「現況を伝える責務」?
さて、そんなマスコミは自身を「われわれには現況を正確に広く伝える責務がある」という主張で、強引な行動を正当化しがちである。でも、その信念は実行されているだろうか?
例えば、家屋が倒壊した、神社の鳥居が倒れた、という事実を捉えて「珠洲で大地震、家屋が倒壊」「鳥居が倒れる」という大見出しにする。それは確かに現況の一部ではあるが、あまりに極端な箇所だけを切り取っている。
マスコミは「客観報道」と言いながら、自らに都合の良い部分を切り取る習性が知られる(上の風刺画のように)。もちろん、被害状況を伝えることに意味はある。ただ、とかく衝撃的な事物だけを選んで報道するのは、誤りではないが、正確でもない。
これで数カ月後に「風評被害が深刻で…」と報道し始めて「どの口が言う…」と突っ込まれるまでが、お決まりの流れである。
【提言】有事にマスコミ連帯の仕組みを
マスコミには、災害や事件が起こると、なぜか血がたぎって走り回りたがる人が一定数いる。そして「自分の仕事には大きな価値がある」という妄信するあまり、さまざまな心理的・物的負担が大きい状態の取材対象者に対し、平然と自分たちの論理を押し付ける。
でも、こういう、取材対応の負担が大きいタイミングこそ、マスコミは連帯すべきだ。
例えば記者クラブの幹事社のように、持ち回りで有事対応の社や役割分担を決めておき、市民から提供された写真や映像を各社に共有する。どう生かすかは各社の腕次第、といった仕組みを作ってはどうか。それなら被災者の取材対応は1度で済む。
そう言うと「我が社の報道の独自性が損なわれる」と反論されるだろう。でも、地震直後から無数の市民が現状を投稿する中、今さら他マスコミとの比較に何の意味があるのだろう。
釣りは魚がいる場所で
今や市民一人一人がSNSを通じて「小さなメディア」を運営する編集長だ。彼らはあくまで市民目線であり、写真や動画は他の編集長たちの「共感」をもって瞬時に拡散される。
そんな時代。数時間後に「こんな大惨事があった!しかも、この情報はウチしか載せてない!すげえだろ!」みたいに上から目線で迫られても…。
マスコミ各社はちょうど、年配社員がダブつく一方で若手人材の確保に苦慮しており、今後の在り方を見つめ直さないといけない局面にある。従来の感覚なら多くの人手を投入したい有事こそ、仕事の進め方や報道姿勢を考える機会だろう。その見直しの中心軸に据えるべきは世の潮流である市民目線に寄り添う取材・発信の方法である。
「釣りは魚がいる場所でせよ」という格言がある。
取材対象者である市民が小さなメディア編集長でもある時代、これまでの高慢な姿勢のまま「〇〇新聞に勝った」「テレビ△△を出し抜いた」と狭い視野で釣果を見ていると、魚群がいなくなったことにも気付けず、何なら、潮が満ちて退路がなくなったことにも気付けなくなるだろう。
もう、なってるかなあ。