所属していた新聞社の書籍を紹介するのは、最初で最後かも知れない。
作家の井沢元彦氏が3月1日発行の「北國文華 2022春 第91号」に寄稿した「『石川県』の誕生と未来」が面白かった。サブタイトルは「明治政府の押し付け返上し『金沢県』に改称を」だ。
以下、筆者のように地元の歴史に疎いまま大人になってしまった人のため、エッセンスだけ紹介する。
「文化にうつつを抜かした藩」
現在の都道府県名は、明治の廃藩置県以後、それぞれ幾度かの変更を受けて固まった。
その結果、前田家が治めた加賀藩の領地は、中心都市の金沢ではなく「郡」の名前に過ぎなかった「石川」を掲げることになり、今日まで引き継がれている。
そもそも、加賀藩は前田利家の死後、豊臣家と縁を切って徳川家の側についたことで、石川県と富山県を含む大きな藩を許された。
だが、大藩ゆえ幕府から常に警戒された。そこで、司馬遼太郎が「軍備をおろそかにし文化にうつつを抜かした藩」と表現するほど、武力で反抗する気がないことをわざわざ内外にアピールし続ける必要があった。
その分、金沢の文化は洗練され、国内の文化の中心地の一つとして発展した。しかし、その方針は幕末に裏目に出る。これまで「幕府に武力で反抗しない」という姿勢を示してきた加賀藩に対し、明治維新は幕府を武力で倒す真逆のスタンスで達成されたからだ。
加賀藩は最終的には薩長を中心とした官軍に味方するが、当初は幕府寄りの姿勢だった。そのため、300年前に最終的に徳川側についてなお、江戸時代を通じて警戒され続けたように、今度は維新政府から白い目で見られることになった。
時の権力者から睨まれてばかりの県である。
薩長の嫌がらせでネーミング?
加賀藩は金沢が中心都市だから、廃藩置県により、そのまま「金沢県」になるのが当然の流れだが、そうならなかった。加賀藩領はそのままだと大きすぎるとして能登の「七尾県」が分離し、その際、全国的に知名度の低い「石川郡」から名前をとった石川県になった。
この時、県庁は石川郡本吉に移っていたので、そのネーミングも仕方ないと言えば仕方ないが、県庁がすぐに金沢に戻ったのに県名は変わらなかった。これを井沢氏は「やはり『徳川寄り』だった加賀藩への、薩長側の嫌がらせとみるべき」とつづっている。
同様の例は全国に幾つかあって、徳川御三家があった名古屋周辺は一時的に「名古屋県」となったものの、後に知名度の低い「愛知郡」から名前をとって「愛知県」に。最後まで強硬な幕府寄りだった彦根藩、会津藩の領地に相当する地域は、それぞれ「滋賀県」「福島県」になった。
いずれの地域も、維新政府により、過去の歴史を否定されたような格好だ。
京都を凌駕する
井沢氏は、そんな石川県も、戦火が及ばず、観光資源が守られた点で恵まれていると評する。そして「京都をはるかに凌駕する観光資源」として①日本有数の泉質を持つ温泉②豊かな海ーを挙げる。この2つが金沢からアクセスしやすいのも特長という。
さて、このコロナ禍が終われば、再び外国人を含めて旅行市場が活発になるかもしれない。
そんな今後の時代に向け、本来ある形に戻すため、井沢氏は「明治維新政府の押し付けである『石川県』を返上し、この際住民投票で金沢県に改称したらどうか」と提案している。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
筆者が大学進学で上京した際、石川県になって100年以上も経つのに「金沢」の知名度が高い一方で「石川」の知名度は著しく低い状況に困惑した。1世紀経てこうなのだから、この先も状況は変わらないだろう。
もっとも、新聞社にいると、例えば「富山」と書くだけでは「富山県」を指すのか「富山市」を指すのか不明瞭で、いちいち面倒だと感じることがあった。
しかし、人口減少時代を迎え、そうした内向きの理屈で物事を考えていてはいけない。実際に県名を変更するべきかどうかは賛否が分かれるだろうが、少なくとも言えるのは、県外、国外の人たちに、どうアピールすれば分かりやすいかという視点が、ますます重要になっている。
今回の寄稿文は、そうしたことにあらためて気付かせてくれる。