【回顧】11年前の2012年、石川県能登町で起きた渇水危機、元記者が取材や行政の対応を振り返る

【回顧】11年前の2012年、石川県能登町で起きた渇水危機、元記者が取材や行政の対応を振り返る

「ダムの水位が低下しています。町民の皆さまには節水に協力お願いします」

 2012年8月。いつものように事務所でパソコンに向かっていると、町営の屋外スピーカーから、聞き慣れない呼び掛けが耳に入ってきた。「節水?」。当時の私は駆け出しで、知識も経験もなかったが、胸騒ぎがして、次の瞬間にはカメラをつかんでダムに向かっていた。

勤務していたのは石川県能登町の能登支局。記者が1人しか配属されていないので、警察も行政もスポーツも、町の全てが自分の取材対象だった。それでも、ダムの取材機会はない。「普段の姿を知らんのやから、現地に行っても異変を認識できんかもしれんな」

だが、それは杞憂だった。山間部で見つけた「寺田川ダム」は、素人目にも枯れかけていた。

※この文章は、当時の自分が書いた新聞記事と記憶を参考に書いています。けっこう昔の話なので、一部、記憶違いがあるかも知れません。お気づきの点があれば、ご指摘いただけると幸いです。

記事が載せてもらえない!

もう夕方だった。ベテラン記者ならその時間帯から記事を書き、翌日の紙面に載せるだろう。でも、当時の私は入社2年目。社内的にはギリギリ人権が認められるぐらいの実力しかない。その日は写真を撮って帰り、夜な夜なダムについて調べた。

翌日、町役場に取材し、金沢本社のデスク(紙面構成を決めたり原稿を直したりする人)に「出稿予定」を送った。「能登町で水不足危機」みたいな見出し案だったと思う。駆け出し記者は紙面で格下扱いの地域面が主戦場なので、とりあえず地域面のデスク宛てに出稿予定と写真を送ったのだが、数日待ってもリアクションはなかった。

暑い夏で、ダムの水位はみるみる下がった。でも、8月も終わりに近付くと、週間天気予報に雨マークが散見された。雨が降ってから「水不足危機」という記事を載せては間抜けだ…。困っていると、主に社会面を担当していた他のデスクから電話があった。「何かネタないか?」「実は……」「すぐに原稿を送れ!」

翌日の社会面トップに、寺田川ダムの貯水率が11%まで下がり、町が18年ぶりに節水を要請したという記事が掲載された。

そして、地域面担当のデスクから恨み節のこもった電話があった。「記事、早めに使わなきゃダメなら言ってくれよ。いつでも良いんかと思ったやろ」。私は無性に腹が立ち、言い返した。「それを判断するのがアンタの仕事やろ!」

温浴施設が休業、ミキサー車で水を運搬

当時の記事によると、寺田川ダムは3町村が合併してできた「能登町」のうち、最も人口の多い旧能都町のほぼ全域3,400世帯の水源だった。その年の降雨量は例年より少なく、一方で奥能登の中では人口が多いエリアを抱えるので、たくさん放水する必要があった。

当時の町上下水道課長は「このままだと2、3週間で断水になる」と話している。

町役場だけでなく、町民総出の節水が始まった。まず、温浴施設が臨時休業した。営業するには大量の水を常に入れ替えなければならないからだ。次に、建設会社のミキサー車を活用し、近くの川で汲んだ水を、陸路で寺田川まで運ぶ作戦が始まった。

その様子を見ていて、私は水の尊さを実感した。飲み物なら、買えば何とでもなる。じゃあ、もっと大量に水を使う風呂は?洗濯は?トイレは?社会面に記事が出た3日後、貯水率は6.5%まで下がっていた。

消えたポリタンク/水道使用は2割減

北陸中日新聞や読売新聞をはじめ地元に記者を置くマスメディアが、寺田川ダムの水位低下を取り上げた。ミキサー車で水を運搬する光景を取材しようと、テレビのキー局からアナウンサーを含む取材陣が続々と奥能登入りした。

断水への危機が高まると、町内のホームセンターでは貯水用のポリタンクが品薄となった。このほか、米のとぎ汁を使って植木鉢に水をやる町民、趣味の洗車を自粛する町民など、地道な取り組みを記事にした。

こうした取り組みの結果、寺田川ダムから給水する3,400世帯の1日当たり水道使用量は2割減の4,000㎥となった。

仮設水道管を設置/寺田川からの水量を半減

もともと奥能登には標高の高い山がない。寺田川ダムも立地は山間部だが、標高は低く、少し下ると海に出る。近くの川も同様の地理的条件で、ミキサー車で水を運ぶには、海沿いの曲がりくねった道を使うために道中で何割かがこぼれてしまう。

そんな中、町は奇策に出る。

運搬中のロスを削減するため、近くの川から寺田川まで、全長4㎞の仮設水道管をつくることに決めたのだ。ちょうど、両河川をつなぐ海沿いの道の脇に、のと鉄道の旧能登線(旧国鉄の能登線)跡地があった。そこに水道管を設置することに。9月1日に着工し、4日に完成。5日から稼働した。

もともと3,400世帯で1日当たり5,000㎥を使っていたが、住民による節水で4,000㎥まで削減し、仮設水道管によって近くの川から1,500㎥を引けるようになった。つまり、寺田川から引く水は、5,000㎥から2,500㎥に半減できたのだ。

100年ぶりの「雨乞い」

町の奇策に呼応するように、住民側も奇策を繰り出した。それが「雨乞い太鼓」だ。

前述の通り、水資源が不足しがちな奥能登では、昔から水不足や干ばつに悩むことがあった。「能登町」を構成する3町村の1つ、旧内浦町にある国重地区に伝わる太鼓も、由緒は雨乞いだった。その国重地区の住民が立ち上がり、約100年ぶりに雨乞い太鼓を奉納したのだった。

もちろん、効果のほどは分からない。でも、合併した旧3町村の確執を感じていた私は、これに大きな意味を感じた。旧能都町地区の危機に際し、旧内浦町地区の住民が「今どき、雨乞いかよ」と世間に笑われるかもしれないことを承知の上で、腰を上げたのだから。

「雨降って地固まる」というが、雨が降らないことで足場が固まることもあるのだと知った。

さて、原因は何だったのか

ここまで取材した頃、私は金沢本社に異動となった。ちょうど雨が降り始め、状況は改善に向かうところだった。

だから、その後の原因究明・再発防止フェーズは私が取材していない。後輩の記事を読んだ記憶によると、水位低下の主な原因は「水道管が老朽化していて、地中で水が漏れ出ていたこと」「うっかり水位低下への初動対応が遅れたこと」とされた。


大きくて複雑そうな問題ほど、意外とシンプルな構造をしていることがある。11年前の能登町の水不足も、まさにそうだった。

最終的には「恵みの雨」が危機を打ち消したのだが、そこに至るまで、町民総出で苦心した。事前の対策さえとっていれば、そんな苦労は必要なかったのかもしれない。

そうした経験から、筆者は2023年の夏、手取川ダムの水位が全国的に見ても際立って低くなったことに、少なくない危機感を持っている。寺田川ダムは3,400世帯の危機だったが、手取川ダムが枯渇すれば、その100倍ほどの世帯に影響するとみられるからだ。

貯水率が20%を切った手取川ダム(2023年9月10日撮影)

少雨の中、みんなが当然のように水を使えば水位は下がり続ける。そして、先々までまとまった降雨の予報もない。さらに水位が低下するのは時間の問題なのに、地方紙を読むと「まだ大丈夫。20%を切ったら節水を要請する可能性も」と書いてある。

「まだ大丈夫」なうちにアクションを起こすから、危機管理なんじゃないの?

早いタイミングなら「小まめに水を止めてね」で済んでも、遅れれば「明日から風呂に入らないで!」になりかねない。今回、なんだか不自然なほど話題や対策が出ないのは、上記のように「うっかり」みたいな背景が潜んでいるのでは、と勘繰ってしまう。

さて。11年前の経験を踏まえ、万が一の断水に備えてミネラルウオーターと太鼓でも買いに行くかな…。

国分 紀芳

国分 紀芳

1985年生まれ。石川県出身。慶應義塾大学商学部を卒業後、地元新聞社に入社。キャリアの大半を経済記者として過ごす。2022年2月に独立・起業した。

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