【新年に思う】石川県は長期政権が終焉するも、結局は「昭和99年」の幕開けに過ぎないか/人材不足で新時代は遥か彼方?

【新年に思う】石川県は長期政権が終焉するも、結局は「昭和99年」の幕開けに過ぎないか/人材不足で新時代は遥か彼方?

2024年を迎えた。石川県民にとっては数人の権力者による長期支配が終焉するメモリアルイヤーのはずだが、筆者は明るい気分になれない。どこぞの知事が句によく付ける「新時代」は遠く、結局は「昭和99年」になってしまうと推測するからだ。

この記事は所要12分ほどで読めます。正月から暗いトーンで恐縮ですが、お付き合いいただければ幸いです。

年末に読まれた記事

2023年末、当サイトで2番目に多く読まれたのが「元日恒例の『北國新聞社 会長詣』、2024年は中止」(1位は鉄道専門店ができる記事)。元日に北國新聞社の飛田秀一会長宅に政財界人やグループ社員を集めるイベントが、2024年は中止になるという内容だ。

記事のアップ後、飛田氏が2024年1月4日付で代表取締役会長を退任し、取締役ではない名誉会長に就くと発表された。「院政か?」と勘繰る向きもあるが、引退だろう。

その飛田氏は1991年に社長に就任。2012年に会長に就いたが、絶対的な権力者であり続け、足掛け33年にわたり新聞社を率いた(実際は社長就任以前から権勢をふるっていた)。

リーダーに依存する県民

石川県内は他にも長期政権の事例が多い。

前石川県知事の谷本正憲氏は、1994~2022年の7期28年にわたって知事を務めた。山出保元金沢市長は5期20年(1990~2010年)で、2010年は市長選に敗れて退任した。県内19人の市長・町長のうち、筆者が社会に出た十数年前と同じ人物は5人いる。

この地に生まれ育った筆者の感覚では、石川県民は気位が高いものの、大胆に行動する度胸に乏しいことが多い。ひとたびリーダーが現れると、良く言えばその下に一致協力し、悪く言えば無批判に従属する傾向がある。

「真宗王国」「加賀百万石」。絶対的な信仰や主君の下で平穏に過ごせた時代を地域のアイデンティティーとして誇ってきた。

筆者は石川県が好きだが、幼少期から疑問に思っていたのは、それなりに栄えてきたはずの地元が歴史の主役として登場しないことだった。出てくるのは「百姓ノ持チタル国」ぐらいで、戦国時代や関ヶ原の戦い、幕末といった歴史の転換点での存在感は、ほとんどない。

その原因の1つは県民性か。大きな争いを避け、日和見主義で生き延びる。だから、天下人に抵抗したり、幕府に義を尽くして散ったりというエピソードはない。平和なのは何よりで、その礎の上に筆者も生きているのだが、やはり物足りない気はする…。

異分子を排除するリーダー

一方のリーダー側はというと、安定を求める住民に後押しされ、多少の失言や失策があっても居座れる。長期政権が必ずしも悪いわけではないし、意思決定が速いので功績も多くなる。

半面、権力者同士が結び付き、体制に対立する異分子を排除するきらいもある。そのあからさまな方法に嫌悪感を抱く人もいるが、表立った批判はしにくい。一市民は黙って従うのみ。そのうちに「何でも偉い人が決めてくれる」と消極姿勢に陥り、主体性がなくなる。

前置きが長くなったが、この依存心こそが2024年以降の先行きに影を落とすとみている。

後継者が育っていない

先日、長期政権の弊害について、ある経営者と話した。意見が一致したのは「必然的なことだが、後継者が育っていない」という点だ。

長期政権の権力者の周囲はどうしてもイエスマンばかりになり、権力者を脅かしかねない実力のある人物は遠ざけられる。だから、形式上の後継者はいても、その人物は権力者の庇護下で体制に順応していただけで、主な能力は前権力者のマネである。

たとえば、かつて私が在籍した新聞社は、今どき1冊2万円の高級書籍を発行しても、各部署は内部での割り当て冊数を順調にさばける。「A社に30冊を買わせる」「B市に20冊を売る」という押し売りが通るから、一般企業のようなビジネス感覚は要らない。

だが、そんな強引な手法は権力者あってこそ。時代が変わる中で影響力を失えば、新たな一手を繰り出して巻き返さないといけない。それなのに、砂上の楼閣からは危機に気づくのが遅れ、しかも斬新な解決策を思いつけない状況が、これから顕在化してくるとみられる。

世代を一括りにしたくないが、いま石川県内で管理的立場にいる世代は、社会に出てからずっと少数者が権力を握る硬直した時代だった。前述の経営者の言葉を借りると「薬にも毒にもならないことが最良の処世術」という環境で、いつの間にか牙を抜かれた人も多いだろう。

前権力者の「縮小再生産」

以上を総合すると、特定の権力者が退場しても、新時代を率いる強い後継者がいないので、結局は前権力者の「縮小再生産」が起こるだろう。

それでは、従来の権力者は何をしてきたか。私見をまとめ、記事を結ぼう。

石川県や金沢市は産業化で先行する各都市を尻目に、昔とった杵柄で「文化」「風格」「本物」など定性的なモノサシをもって優位にあると主張してきた。

金沢に尊い伝統文化や工芸が多くあるのは筆者も認識している。しかし、それをもって「独自のポジションを築いた」「世界に冠たる」と言われても、そもそも比較できない分野で他都市との優劣を論じるところに矛盾がある。

近年は観光こそ盛り上がっているが、人口や経済規模は全国の1%に過ぎない。それなのに、やっていることは財政が豊かな巨大都市のよう。やたら建物を整備したがり、至るところに樹木やホールがあるのに、未だに「市街地の緑化を」「ホールが必要」と繰り返す。

むしろ、これらは巨大都市というより、高度経済成長期を抱えた昭和期の手法なのかも知れない。経済規模が拡大して民衆が豊かになる中、娯楽施設を増やす必要がある一方、急な開発の弊害が生まれるから対策を…という(昭和を否定するのではなく、時代と思考が合致していないと言いたい)。

インターネットが普及した平成を経ても「紙の発行部数」に固執する人物が台頭していた故のタイムラグだろう。ただ、いま従来の権力者が去っても単に指導者不在の状況が訪れるだけで、前権力者の影響が薄い新たな世代が存在感を持つ時期までは惰性で走るほかない。

長期政権の弊害はこれからが本番なのかも知れない。そんな危機感を込め、冒頭で2024年は「昭和99年」に当たると表現した。来年は昭和100年。気は早いが、それはそれでメモリアルな年になってしまうなあ……。

国分 紀芳

国分 紀芳

1985年生まれ。石川県出身。慶應義塾大学商学部を卒業後、北國新聞社に入社。キャリアの大半を経済記者として過ごす。2022年2月に独立・起業した。

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